元通信制高校の先生が語る、不登校でも大学受験に合格する方法

不登校に悩まされていた生徒たちと大学受験を挑んだ、元通信制高校の先生が受験に関する情報をお伝えするブログです。

和歌の読み方~8つのルール~

こんにちは!
名古屋市通信制高校
不登校を経験した生徒たちに
大学受験指導をしている
ふくちゃんです!


今日のテーマは和歌です。


受験において和歌を詠めるようになるコツは、
なぜ、その位置にあるのかを考えることだ。

たった31音で人の心情を
文脈と絡めて表現しないといけない和歌は、
その内容が理解できる位置にあるべきであり、
実際にそうなっている場合が多い。

つまり、それまでの登場人物の行動、
直面した事態、対人関係などを
しっかり読み取れていれば、
和歌がそこに位置する意図は分かるはずであり、
そこから修辞法を予想するべきである。

受験では基本的に和歌の意味だけを
解釈させる出題は少ない。
(和歌だけで訳せた方が良いに決まっている)

これを上手く利用していって欲しい。


また、和歌に対して苦手意識が強い子が多いが、
慣れてくると和歌がない文章の方が、
心情が見えてこないので
読みにくいとさえ感じることもある。


和歌が苦手な人は、
文法・語彙・古文常識・敬語の
ブラッシュアップを忘れないで欲しい。

特に古文常識は後回しになりがちだが、
レベルが上がってくると必ず必要となる。

 



和歌の基本的な規則(ルール)=8の技法(修辞)

 



(1)枕詞      (2)序詞   (3)見立て      (4)掛詞   (5)縁語 
(6)本歌取り  (7)物名   (8)折句・沓冠  



この8の技法が和歌で使われるものである。
現在は形式的で意味がないとされる技もあるが、
和歌が実際に作られた時代には
それらにも意味があったのだ。


そういった側面に触れていくことで、
和歌に対する嫌悪感・苦手意識が
少しでもなくなることを願います。



(1)    枕詞
「主に5音で実質的な意味はなく、特定の言葉と結びつく」。

これが現在の基本的な枕詞の定義であろう。
しかし、31文字しかないのに
意味もない言葉で5文字も使うとは考えにくい。

ということで、具体例を挙げて
枕詞に隠されている意味について考えていきたい。


e.g. 「しろたへの」と「衣・袖・雪・雲」


しろたへの 袖のわかれに 露おちて 
身にしむ色の 秋風ぞ吹く

(しろたへの袖を分かつような
別れのつらさにこぼれおちた涙が、
身にしみるような色あいの秋風が吹く)



そもそも「しろたへ」は、
梶の木の皮の繊維で作られた白い布である。

つまり、衣と袖に関しては
「布」である点で同質であり、
雪と雲に関しては「白」という点で同質である。


同質であるものを繰り返すのは
今でも使われる強調の表現であり、
最初はそういった役割を担っていたのが
枕詞であったのではないかと考えられる。


万葉集」で使われている例を見ていくと、
面白い特徴もある。
例えば、「袖」を使う時は恋愛の歌で
「袖をかわす」=共寝、「袖を濡らす」=泣くことを表現しており、
「布」を使う時は「白装束」=葬式をイメージさせる歌で使われていた。



「ちはやぶる」と「神」



ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 
からくれなるに 水くくるとは
(神代の昔でも聞いたことがない。
竜田川の水を紅葉が深紅にくくり染めにするとは)


ちはやぶるを分解すると、
ち=風、はや=速い、ぶる=様子となり、
万葉集」では荒々しい神を
イメージされて使われることが多かった。

しかし、「古今和歌集」以降を見ると
その様相はがらりと変わってしまうのだ。

むしろ、「ちはやぶる」は
神を畏敬の対象ではなく、賛美する対象であり、
永遠に存在することを
願うように使われるのである。


ここで考えられるのは、時代を経る中で
日本人の「神」に対する
イメージが変わったということである。


そうなると、「万葉集」と「古今和歌集」の和歌を
対比させている文章においては、
枕詞にも意味があると考えられそうである。


以上の様に、枕詞をただ暗記するのもいいが、
枕詞になっている言葉の意味は
そもそも何であるのかを
古語辞典で調べるだけでも、
記憶の定着は良くなるのではなかろうか。



言葉を覚える時は、
英単語でも古文単語でもそうだが、
単語帳にあるような凸凹がない意味だけを
覚えようとしてもなかなか身に付かない。

というよりも、使いこなせないと思う。
一見めんどくさいかもしれないが、
単語帳でやったのに
読解問題で使いこなせない気がしたら
辞書を引いてみて欲しい。

そこには元々はどうゆう意味だっのか、
他にはどんな意味があるのかといった情報が載っている。

そういった言葉の凸凹を掴むだけで、
暗記の効率も使いまわし方も大分良くなるので、
結果としては近道なのだ。



(2)    序詞


音数に制限がなく、
ある語句を引き出すために心情とは関係なく、
音やイメージの上の連想からその語句の前に置く言葉。恋歌に多い。


ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 
あやめも知らぬ 恋もするかな
(ほととぎすが鳴いている。そんな五月を飾るあやめ草。
綾目(物事の道理)を見失うような恋をしているものだ。)



今で言うと5月はからっとした時期だが、
昔は梅雨の時期であった。

鬱陶しい雨が降りしきる中、
物思いを掻き立てるほととぎすの鳴き声が飛び交う、
そんな中にくっきりと白や紫の花を咲かせるあやめ草。
あやめ草はくっきりと咲いているのに、
私の恋愛の綾目はもう見えなくなったしまった
そんな気持ちを歌っている。


正直、ここまで取るのは難しい。
しかし、大事なのは序詞と伝えたい思いには
直接的な関係はないことだ。

掛詞や比喩として使うために置かれているので、
情景部分と心情部分を
きっちりと分けて考える癖をつけて欲しい。



(3)    見立て


「見立てる」という動詞には
「なぞらえる」という意味があり、
比喩の一種である。


大事な点は、
実際に目の前に存在しているモノと
目の前にはないモノを
知覚的に比べることである。


また比べられる2つは
必ず現実世界に実体として
存在していることも重要である。


み吉野の 山辺に咲ける 桜花 
雪かとのみぞ あやまたれける
吉野山のあたりに咲いている桜の花は、
まるで雪かと見間違うばかりだ。)



上の歌ではどちらも自然に存在している
「桜」と「雪」を見立てている。
いまでは桜吹雪という言葉があるように
古代から桜と雪は似ていると思われていたのが分かる。


神奈備の 三室の山を 秋行けば 
錦たちきる 心地こそすれ
神奈備の三室の山を秋に超えて行くと、
私の身にも紅葉散りかかって、
錦を裁って着物として着ているような心地がする。)


上の歌では、「錦」と「紅葉」が、
つまりは自然と人工物が見立てられている。
見立てはこの2パターンしかなく、
必ず自然のものを自然か人工物と見立てることが特徴だ。


(4)    掛詞


同音異義語を利用して
1つの言葉に複数の意味をもたせる修辞。
一方は自然に関するもので、
植物や時間の経過を表す。
もう一方は、人に関することで感情や行動を表す。
また、掛詞になっている部分は
漢字で書けるときでも平仮名で表されることが多い。



難波江の 葦のかりねの 一よゆゑ 
みをつくしてや 恋ひわたるべき
(難波江の葦の刈り根の一節のように、
短い旅先での一夜の仮寝のために、
難波の澪標ではないけれど、
この身をささげて、
ひたすら恋慕い続けるというのでしょうか)



旅先での一夜かぎりのロマンスを詠んだ和歌。
仮寝の時間的な短さを、葦の根の短さと掛け、
一夜限りと一節を掛け、
身を尽くすことと海上の目印である澪標を掛けています。

自然と抒情に分けると、以下のようになります。

自然 難波江の葦の刈り根の一節(ゆゑ)澪標
抒情 仮寝の一夜ゆゑ身を尽くしてや恋ひわたるべき



(5)縁語


和歌の中で意味的に関連の深い言葉、
あるイメージ的に関係ある言葉を説明するために、
一語を中心にして放射状に広がる語群を指す。

縁語は歌の趣旨には関わらないけれど、
歌の世界観を邪魔しない言葉です。


行く月の 清き河原の 小夜千鳥 
立ち居の影も くまやなからむ
(行く月が映るほど清い川の河原にいる小夜千鳥は、
立ったり座ったりする姿もかげりがないのだろうか)



上の和歌の縁語は「月」に導かれた「影」と「くま」です。
まさに歌の世界観を邪魔しないという条件を
見事に満たしている歌と言えるでしょう。
むしろ、統一感が出てると思うほどです。


(6)本歌取り


昔の歌をふまえて新しい歌を詠むこと。
本格的になったのは平安時代後期からです。


夕されば 野べの秋風 身にしみて 
鶉なくなり 深草の里
(夕方になると、野辺を吹く秋風が冷たく身にしみて、
鶉が悲しい声で鳴く。その声が遠くから聞こえてくる深草の里よ。)



この歌は「伊勢物語」の123段をふまえて詠まれています。
その場面は付き合っているうちに
少しずつ飽きてきた男とそれを察知した女との
やりとりが語られているとこです。


むかし、男ありけり。深草に住みける女を、
やうやうあきがたにや思ひけむ、かかる歌を詠みけり。

年を経て 住みこし里を 出でていなば 
いとど深草 野とやなりなむ

女、返し、

野とならば 鶉となりて なきをらむ 
狩りだにやは 君は来ざらむ

と詠めりけるにめでて、ゆかむと思ふ心なくなりにけり。

 

この場面と上記の歌を比較してみると、
「鶉なくなり深草の里」という場面が同じですが、
「夕されば」「秋風」「身にしみて」の
時間・季節・身体感覚が新しく加わっています。

これらの設定が加わることで、
読者の様々な想像を許容する深い歌になっています。


本歌取りはただの模倣になってしまう可能性も
ある危険を孕んでいる技術ですが、

だからこそ、古の和歌の意図をしっかり理解し、
その美しさを昇華させることができれば、
自分の和歌の中に古き良き歌を
息づかせることが出来る高等技術となるのです。



(7)物名


物の名称をその中に呼び込んだ言葉遊びの和歌の一種である。

心から 花のしづくに そほちつつ 
憂く干ずとのみ 鳥の鳴くらむ


この歌の中に隠されている物の名前はなんでしょう?
音の清濁は関係ないことがヒントです。少し考えてみましょう。

まずは訳から。
「自分から求めて花の雫にずぶ濡れになりながらも、
「つらいことに乾かないよ」とばかりに
鳥が鳴いているようだね。」という訳になります。


鳥がそんなセリフを言う訳がないので、
そこには擬人法が使われています。
つまり、この歌で言いたい物の名前は鳥であるはずです。

そう考えると、セリフ部分が
あやしいな~と思いたいわけです。

すると、「憂く干ず」が何かを指している。
すべて平仮名に直すと「うぐひず」。
さらに現代仮名遣いに直すと「うくいず」。
ここから予想してみましょう。



答えは「うぐいす」です。
これは題が与えられている歌なので、
分かりやすい歌なのですが、
普通に歌にも隠されていることはあり、
その場合に「なぜ」その物の名前を隠そうと
作者が思ったのかを考えてみるのも面白いものです。



(8)折句・沓冠


折句・沓冠は遊戯的なレトリックです。
折句は5文字のお題をバラバラにして、
それぞれの句の頭に読み込む技で、
沓冠はその高度にしたもので10文字のお題を各句の最初と最後に置く技です。


唐衣 きつつなれにし つましあれば 
はるばるきぬる 旅をぞしぞ思ふ
(唐衣を繰り返し着てくたくたになった褄のように、
私には慣れ親しんだ妻がいるので、
はるばる遠く来てしまった旅を思うことよ)


逢坂も はては行き来の 関もゐず 
たづねてとひ来 来なば帰さじ
(逢坂も最後は関がなくなるように、
もはや二人を隔てるものもいない。
気兼ねなく訪ねて来なさい。
来てくれたらもう帰しませんよ)

 唐衣の歌は折句が使われており、お題はかきつばたです。
この歌は掛詞が上手く使われているので確認していきます。
妻と褄、遥と張る、来と着るがそれに当たります。

また、この歌は遠く離れた土地に
旅に出た時に詠まれた歌ですが、

慣れ親しんだ妻を歌うことで
故郷への郷愁と妻を恋しく思う
気持ちが強調されるわけです。


逢坂の歌は「合わせ薫物少し」が隠されています。
薫物とは当時のお香のことで、
合わせ薫物は数種類の香料を練り合わせたものになります。

これはある天皇が妃に対して投げかけた謎かけで、
気付くことが出来ますかという課題であるわけです。


どちらのレトリックも
仮名文字文化が盛んであった頃のものなので、
仮名文字で考えるようにしていくと気づきやすいでしょう。




おわりに、



和歌を楽しく学ぶにはどうすればいいか。
これを考えるようになった時に、
つまらないなと思う理由は
暗記一辺倒だったからのではないかと
思うようになりました。


和歌とは31文字という少ない文字数の中に、
人と自然に関わる様々な感情の機微を
色んな技使って編み込んでいく芸術です。

ただし、現代の我々が使うことはない技が
使われているので、
それを綺麗だな~と思うためには、
一定の知識は必要であるというだけなのです。